横断型研究開発の重要性

木村 英紀

UP2002年3月号掲載 (東大出版会)

1. はじめに

計測自動制御学会など12の学会は昨年12月26日、総合科学技術会議に対して「横断型研究開発の重視」を訴える提言を行った。この提言の趣旨は工学・技術の研究開発に「横断型」という視点を導入することによって研究開発の戦略をこれまでの一次元垂直型から横断型を取り入れた垂直型と横断型の二次元構造に転換することにある。提言の草案にあたった一人として、この提言が生れた背景について述べてみたい。提言に参加したのは次の学会である。

計測自動制御学会、システム制御情報学会、精密工学会、日本ロボット学会、
日本ファジィ学会、ヒューマンインタフェース学会、日本バーチャルリアリティ学会、
人工知能学会、スケジューリング学会、日本植物工場学会、
日本オペレーションズ・リサーチ学会、日本リモートセンシング学会

提言の文案は計測自動制御学会の企画委員会での議論がベースになっている。提言の全文は計測自動制御学会のホームページ(http://www.sice.or.jp/)に掲載されている。

2. 技術の成熟と転換

 自動車、家電製品、原子力発電など数々の多様な製品を生み出した20世紀の技術は、21世紀に近づくにつれてこれまでと質的に異なる様相を見せはじめた。それらはいずれも現代技術が一定の成熟したレベルに達したことを意味するものであるが、具体的には次のような形であらわれている。
 まずハードウエアとソフトウエアの価値(価格)がいたる所で逆転していることが挙げられる。たとえばハードウエアとしての携帯電話が契約すれば無料で配布された、という事実はこのことを象徴している。激しい競争をくりひろげているゲーム機でさえ、ゲーム市場全体でハードウエアの占める金額の割合は2割強に過ぎない。要素技術を深め、品質性能がレベルアップした新製品を開発し生産コストを下げてもそこから得られるメリットは相対的に減少しつつある。広い視野から製品の利用技術を新しく開発する方がはるかに大きなメリットとインパクトをもたらす。良い悪いは別として現代の技術はこのような形で存在している。
次に通信の発展によるグローバリゼーションによってシステムの統合が進み、技術が対象とするシステムはますます大きくなりつつあることがあげられる。企業内のさまざまのシステムの運転、運用、管理を最適化することによってコストを下げ、開発期間を短縮することは現代技術の大きなトレンドのひとつであるが、その場合に考えるシステムはかっては工場の操作単位であった。それがライン全体となり、さらには工場の生産総体が最適化の対象となり、やがて会社の生産システムから経営システムまで統合された会社全体のオペレーションを対象とするようになった。現在では原料や部品の供給先から製品のユーザまでを含むいわゆるサプライチェーンが最適化の対象になりつつある。このような新しい統合化を実際に進めることが出来るのは専門がひとつの領域に限られず、広い範囲の専門領域に通暁した新しいタイプの技術者である。
 先端技術と言えばその多くが工場でものを作るためのものであった。人々は先端技術が作ったものを通して間接的に先端技術を知るだけであった。しかし今では最先端の技術が自動車、映像機器、コンピュータなど大量生産、大量消費製品に組み込まれ、人々は日常生活の中で技術の先端に触れるようになった。輸送、通信、娯楽、医療、警備などのサービス部門でも先端技術が進出し、その影響は人々の生活の隅々にまで及んでいる。その結果技術の高さ、製品のよさは人間の観点から評価されることになる。人間は奥深い存在であり、「人間の観点」という一言では語り尽くせないが、いずれにせよ個々の要素技術のよしあしを超えたより高い視点から技術を捉えることが必要である。
 以上、現代技術の新しい様相として「ソフトウエアとハードウエアの価値の逆転」「システム統合の進展」「人間と先端技術の接点の広がり」を挙げた。これらはそれぞれ「利用」「統合」「人間」が技術の新しいキーワードになりつつあることを示している。このように技術の新しい局面への認識が提言の強い動機となっている。

3. 「応用工学」と「純粋工学」

 大学の工学部で教えられている学科目は多種多様であるが、基礎的な科目に限ると次の二種類に大別される。ひとつは主として自然科学に基礎をもち、対応する基礎的な科目が理学部に設けられているような学科目である。たとえば電磁気学、音響学、材料力学、工業熱力学、化学反応論などである。もうひとつは自然科学を基礎とせず理学部に対応する科目がない学科目である。制御工学、システム工学、設計学、信号処理論などである。前者は自然科学の応用の側面が強いので「応用工学」と仮によぼう。一方後者は工学の中で閉じているので「純粋工学」とよぶことが出来よう。この2つのカテゴリーは工学の基礎科目として対照的である。「応用工学」は自然を対象としているので経験との接点が多く、従って理解しやすい。それに比べて「純粋工学」は人工物の論理を主な対象としているので抽象的であり、従ってとっつきにくく感じられる。しかし論理に馴れれば体系的であるが故にかえって理解しやすい面をもつ。たとえば材料に力を加えると変形することは誰でも経験上知っている。材料力学は従って経験の延長線上にある。一方線形システムの入出力関係の数学的表現を経験上知ることは難しい。信号処理論やシステム工学は決して経験の延長上にはないのである。
工学部の学科目が「応用工学」と「純粋工学」の範疇に分かれており、それぞれ異なった理解の形を要求していることを学生に示しておくことは教育上プラスになるはずである。かつての工学部の基礎教育では圧倒的に「応用工学」が優位であった。技術の成熟と軌を一つにして次第に「純粋工学」の比重が増してきたのが工学部教育のトレンドである。現在ではおそらく両者の比重はほぼ等しくなっているのではなかろうか。そして現代の工学部の基礎教育は両者の微妙なバランスの上に成り立っている。ただし工学部の学科編成で見ると「応用工学」が圧倒的に優勢である。電気工学、応用化学などの学科は自然界のエネルギーの種別によって成立してきた工学の分野の分け方であるから、もち論「応用工学」を基軸とした学科である。船舶工学、航空学、冶金学などはそこから派生し製品によって編成された学科である。
 一方「純粋工学」を基軸とした学科は1960年代における工学部の拡張期には数多く生れた。制御工学科、システム工学科、計数工学科、計測工学科、数理工学科などがそれである。しかしその後の我国における工学教育の流れで強固な地位を築いてきたわけではない。むしろ急ピッチで進んだ情報工学整備のかげで取り残されてきた感がある。その代り「純粋工学」の学科目は「応用工学」の学科のカリキュラムに取り込まれた。つまり一部例外を除いて「純粋工学」は「応用工学」を基軸とする教育体系の一部に位置付けられている。この点は海外の大学教育でも多かれ少なかれ類似した状況にあるが、このことが我国では独自の意味をもつことを後に述べる。

4. 「垂直型」と「横断型」

 工学部の教育を通して工学が自然科学の応用という側面と人工物の論理にもとづく工学独自の側面の2つをもつことを述べた。これは別に特別な見方ではなく、人間や社会に貢献することを最終的な目的とする工学の基本的な性格に基づくものである。技術の初期の発展の段階では自然の力の解放に力点がおかれた。もち論技術が工学として体系化されるずっと以前の近代技術の黎明期から「純粋工学」は存在していた。産業革命の父とよばれるジェームズ・ワットが、蒸気機関を発明しただけでは満足せず、蒸気機関が供給するパワーを自動的に調節する「調速器」を発明し、それによって蒸気機関を一挙に普及させたことは一つの例である。以来制御工学をはじめとする「純粋工学」は影になり日なたになって技術の発展を支え、その付加価値に貢献してきた。技術が成熟し、人間との接点が増すにつれて「第二の自然」としての人工物独自の論理が前面に出て技術の進歩を牽引するようになったのは言わば自然の成り行きである。そしてそれがそのまま2節で述べた現代技術の新しい転換点となっている。そこで述べた「利用」「統合」「人間」の3つのキーワードはすべて自然科学の応用ではない工学独自の論理から生れるものである。従って「独立工学」を発展させることが技術の新しい展開点に対応する技術開発の基本戦略となる。
 「純粋工学」を発展させるに際してそれをどのように位置付けるかが問題となる。自然科学に基礎をもたないというだけでは不十分であろう。すでに「純粋工学」の例として挙げた制御工学やシステム工学などはそれ以外に様々な応用工学の規範と共通する対象をもち、しかもその対象からある種の普遍性を引き出し独立した論理的な体系として工学全体のなかに位置付けられている。そのような体系性をもたなければひとつの独立した研究領域としての位置を占めることが出来ないし教育すべき規範とも成り得ない。このような工学を、すでに古くから存在している領域を横に貫通する規範という意味で「横断型」と名づける。従ってこれまでの伝統的な区分けに従って発展してきた応用工学の規範を横断型に対して「垂直型」とよぶ。横断型の工学とは次の3つの条件を満足する工学である。

  1. 数多くの垂直型の分野と共通の対象をもち、そこから普遍性を抽出している
  2. 独立した論理の体系をもつ
  3. 自然科学に基礎をもたない

たとえば制御工学やシステム工学は上の3つの条件を満足する横断型の典型的な例である。これから発展しようとしているモデル工学も横断型研究の中核として位置付けられるであろうし、認識や行動を実現する広義のロボット工学も含まれる。また近年問題として登場してきた技術倫理も横断型に位置付けられる。
「融合」という言葉は最近の一種の流行語である。「融合」を冠したプロジェクトや研究組織も多い。横断型と言えば融合と混同されたりその別名のように使われる場合があるが、両者は全く別の概念である。融合はある特定の対象に対して複数の規範が協力しあってひとつの研究領域を構成することであり、たとえばナノテクノロジーはその好例である。これに対して横断型は工学そのものの構造に根ざしており、その対象は時代にかかわりなく存在している。つまり融合は工学全体における位置付けからみても、あるいは時間の推移から考えてもローカルな存在であり、横断型は工学全体を貫くグローバルな存在である。あるいは横断型の工学は融合を生み出す母体でありシーズであるとも言えよう。図1は横断型と融合の関係を示したものである。図1のような二次元構造として工学を捉えることが技術の成熟に対処するためには必要である。

5. 垂直型が優勢な我国の技術

 すでに述べたように、1960年代の工学部拡張期には「独立工学」を規範とする工学部の学科がいくつか生れている。この時期には垂直型に拮抗する軸として横断型を重視する考え方が確かに存在していたことは60年代半ばに大学院に入った筆者には実感として確かめられる。この時期に国立大学理工系の定員は2倍近く増えたというから、おそらく欧米に追いつき追い越せの意気込みには気宇壮大なものがあったに違いない。そしてそれなりに先見の明を備えていた指導者も少なくなかったに違いない。それから30年余、科学技術の政策としては横断型の軸は跡形もない。あるのはテーマ毎の際限のない垂直型規範の新設とその細分化である。一方企業では要素技術を掘り下げて性能・品質の高い製品を生み出し、生産コストを出来る限りおさえることを目的とする伝統的な技術開発のスタイルが依然として主流を占めている。このスタイルを究極までつきつめたからこそ今日の世界に誇る要素技術を我国は育て上げることが出来た。このことのプラスの側面を否定するつもりは決してない。要素技術はこれからも掘り下げることを続けなければならない。しかしこれと並んで大きな発想の転換が必要なことも2節で述べた通りである。
 よく知られた著書[1]で中根千枝氏は我国の組織が「たて関係」に支配されやすいことを述べているが、これを技術の世界に投影すると垂直型の研究が自然に優勢となる技術者研究者の組織と心理が浮かび上がってくる。中根氏は我国のたて社会が「場」を媒介として形成されることを述べているが、この「場」を技術者研究者に提供するのは大学学部の時代である。電気工学科を卒業した者はどこに行こうと「電気屋」として自らを規定し、そして上司もそのように見る。「機械屋」も「化学屋」も「冶金屋」も皆同じである。その自覚を促すのがそれぞれの学科での「文化」の違いである。「文化」は伝統的に受け継がれたものであるが、それは学科の運営方式や学生の扱い方に反映する。私は電気系の学科に17年、機械系の学科に7年在職したが、両者の運営方式の違いに驚いた記憶がある。文化が違っていることは多様性があることの証拠でありそれ自体は結構なことであるが、このような副作用があることは注意しておいてよい。「電気屋」と自覚した以上は「機械屋」の仕事には口を出さないし、その内容を勉強することもしない、というのは最悪ケースであるがしばしば起ることである。勉強するにしても身が入らない。融合領域が生れても研究資金を配分するときは電気屋、機械屋、化学屋などに本家帰りした縄張り争いが起り勝ちである。
 我国で垂直型の規範が強いもうひとつの原因として挙げたいことがある。すでに述べたように垂直型の規範は自然科学の応用にあるが、このことを技術の定義に高めた人が居る。それは高名な物理学者でマルクス主義者でもある武谷三男氏である。武谷氏は第二次大戦中技術を「人間の生産的実践における自然法則の意識的な適用である」と定義した[2]。この定義は戦後の技術をめぐるマルクス主義者の間の論争で不動の地位を獲得し、武谷氏のカリスマ性も手伝ってこれを信奉する先進的な技術者も少なくなかった。この定義は技能と経験に頼りがちであった第二次大戦まえのわが国の技術に対する批判としては大いに有効性を発揮したが、自然科学者による工学・技術の見方である。「応用工学」の立場から考えれば当然の定義とも言えようが、「純粋工学」がすっぽりと抜け落ちており、21世紀を迎えた現代技術の特徴づけとしてはすでに有効性を失っている。「武谷テーゼ」が我国の垂直型技術の優勢に実際どれほど寄与したかを示すには実証的な分析が必要であろうが、物理学者が理学、工学に君臨し科学技術行政の中核に位置していた時代があったことは確かであり、そのことが「応用工学」=「工学」という等式をひとつの常識として定着させることに大いに寄与したのではないか、と思われる。
 我国は科学立国を標榜し、野心的な戦略のもとに幾つかの「重要分野」を選別的に推進している。そのことは大いに評価できる。しかしIT→バイオ→ナノテクノロジーとめまぐるしく動く「焦点」の設定はいずれもたての加算としか働かない。たての発展が互いに相乗効果を及ぼすような仕組みは存在しないし、たての発展のなかに新しい分野を自ら胚胎し得るような機構は考えられていない。自発的に発生発展する「融合」をあと追いしているだけのように見える。科学技術と社会の調和した相互作用にとっては障害となる垂直志向への歯止めは見られない。

6. おわりに

 「横断型」という言葉のひびきは日本語としてそれほどよいものではない。そもそも「横」という言葉は悪い意味に使われることが多い。「横流し」「横取り」「横車をおす」「横道にそれる」「横紙破り」など・・・。それに対して「たて」は「たて板に水を流す」「縦走」「縦貫」などどちらかと言えばプラスの語感を持っている。
 放っておけばたて型が優勢となる我国の自然傾向があるが故に、それへの対向軸を意識的に模索する動きも我国では時に応じてあらわれてきている。この提言に賛同した12の学会をはじめ、横断型の規範のもとに多くの学会組織が作られてきたことは、我国のマイナスの側面をプラスに転じる可能性を示唆している。ここで述べた工学・技術の二次元構造を意識し、それを軸に科学技術の戦略を構築している国は現状ではまだない。欧米ではむしろその構造は意識するまでもない当然のものとして実現されている。しかし無意識に実行するよりも意識的に実行することの方が得られる結果は大きい。本来たて志向である我国がそれと直交する横断型の軸を意識的に設定し工学技術の二次元構造を研究開発のインフラとして実現し推進することによって、我国が21世紀の技術開発競争で再びリーダシップをとることも不可能ではないと考える。これが12学会提言の趣旨である。

参考文献
[1] 中根千枝「たて社会の人間関係」 講談社現代新書 1967
[2] 武谷三男「弁証法の諸問題」 理論社 1952